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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

下河辺オーラル・ヒストリー 下

本題に入らせていただきます。
 私が早稲田大学に移って間もない頃、かつて琉大の私の自主ゼミに参加していた名桜大学の宮平栄治教授から、「東京に行くから、会いましょう」という連絡があったので昨年の5月に会ったんです。

 宮平君が琉球大学の私の自主ゼミに参加していた頃、早稲田大学をはじめ駒沢大、慶応大、学習院大、拓殖大など、いろいろな大学と盛んにインターカレッジ・セミナー、つまり大学間の研究交流やっていたんですけれども、そうすると琉球大学の学生たちはそれらの大学生たちとも友達になる。卒業してからもそうした本土の学生たちとの交流が続くんです。

 宮平君は卒業してから随分なるんですけれども、上京するので早大の旧友たちに招集をかけた。私もそのときに呼ばれて行ったら、その場に早稲田OGの女性がいまして、「先生、早稲田で何を教えているんですか」と聞くものですから、私は開発行政学とか地域政策論とかを教えていて、地域政策論では国土政策をめぐって下河辺さんの本とかを参考にしているよ、とそういうことを話すと、「ええっ」とか言って、NIRA(総合研究開発機構)に勤務しているこの女性が、「私、下河辺さんの秘書をしていたことがあります」と言うんです。

 そして、「下河辺先生はNIRAの理事長をやっていたんです。NIRAも辞めて、それから東京海上の研究所の理事長をやって、その顧問も辞めて、もう80歳ですから、それで小さな事務所に移られました。いろいろな資料整理をしなければならなくて、国土政策関係の膨大な資料はNIRAが引き受けてそれを整理するということになったけど、そのほかに沖縄関係の資料が段ボール箱に五つぐらいある、この5箱を預けるところを探しているという先生の話を聞いたんです」と彼女は言うんです。

 私は、下河辺さんが復帰前から沖縄に関わっているというのを知っていますから、「ぜひその資料は私の研究室で預からせてもらえないだろうか。私が資料を調べた後は、必ず公文書館かどこかで沖縄できちんと保管するように手配しますから」といって、「その旨を下河辺さんに連絡してくれないだろうか」と言うと、「わかりました」と彼女は引き受けてくれ、それで連絡してくれて、そうしたらすぐ下河辺さんからOKの返事がありました。それでその件で私も下河辺事務所に挨拶に行きました。

 初めてそのとき下河辺さんとはお会いしたんです。私がうっかりして下河辺淳(ジュン)さんと言ったら、その秘書だった女の子から「ジュンではありません、アツシです」と注意されました。そして、お会いしまして、どうか資料を預からせてくださいとお願いしたわけです。「私は沖縄に長くいて、そしていまは早稲田にいて、先生の国土政策関係の本も読ませていただいています」というようなことを言って。それで、下河辺さんは「ああ、いいよ」と言ってくれました。

 会って見ると、下河辺さんは国土庁の事務次官も経た本当に官僚中の官僚だったんですけれども、おおらかなで、気さくなやわらかい人柄で、官僚臭さをあまり感じさせません。だから、この人はやっぱり一風、変わった官僚だったんだなと心中、思いました。
 
 この部屋の3分の2ぐらいのスペースの事務所で、書類がいっぱいありました。そしてもう1人、東京海上の研究所の理事長だったときの秘書の方と2人で仕事をなさっていて、元秘書の方は別に自分の仕事を持っていていろいろなことをやっておられる様子でした。この2人で仕事をやっていて、それでこれぐらいの書類ケースがあって、テーブルや机をぽんぽんと置くとたちまちスペースがなくなるような事務所でした。
 
 それで、入り口の近くに置かれているテーブルのところで座って初めて対面したんですけれども、下河辺さんは顔色もよくてお元気なんです。身長も高いんですね。ただ足をちょっと引きずるような形で歩いておられました。それで、これから下河辺さんにお会いするためには、私がここに出向かなければならないということがすぐにわかったんですけれども。
 
 それで、琉球大学に対して彼はあまりいい思い出がないということはよくわかりました。それはやはり、琉球大学には政府批判の急先鋒がかなりいて、とくに大田県政のときには随分かみつかれたというような印象が強かったんでしょうね。
 
 そういういきさつで、早速、沖縄関係の資料の5箱が早大の研究室に届きました。見ているうちにいろいろな資料がありまして、例えば大田昌秀さんなど沖縄関係者からの寄贈書や報告書などがたくさんありました。私も新学期になったばかりで大学のほうが忙しかったので、資料に丹念に目を通す時間をなかなかとれなかったんですが、そうこうしているうちに、突然、「えっ」と思った資料に手を触れました。それがこの「沖縄問題を解決するために」というA4版3枚綴りのメモです。こんなメモがあったという事実は新聞等でも読んだ記憶がない。ただ「沖縄問題を解決するために(メモ)」と見出しで書いてあって、それから「1.沖縄県民の歴史的悲劇により、痛みとゆがみと差別的処遇の記憶によるねじれ…」と始まっている。これを読むと、これは多分下河辺さんが書いたんだろうなというのが大体、検討でわかりました。
 
 これにはいつ書かれたのか、日付がないわけですけれども、ところが別にA4版1枚の日付表があり、上記のメモと一緒に箱の中に置かれていました。
 
 この日付のメモには手書きで「25周年(1997年3月~10日)と書き加えてあるんです。これは下河辺さんの自筆です。ところがこれは間違ってつけ加えたんです。1997年ではなくて、1996年の間違いです。これは本人に確認しました。「先生、これは1996年の間違いでしょう」と言ったら「ああ、そうだったかね」とか言っていました。
 
 この日付のメモには、8月12日に「下河辺メモ作成」とありました。それは「沖縄問題を解決するために(メモ)」のことだというのがすぐにわかりました。
 
 そうすると、日付表に簡潔な表現で「3月4日・官房長官」、「3月5日・知事」などと列記されてあるのは、下河辺さんが要人と会ったスケジュールであることもわかりました。1996年当時、代理署名訴訟問題で橋本内閣と大田県政が真っ向から対立して大騒ぎになっている最中に、この下河辺さんが陰の調整役としていろいろ動いているというのは、当時の新聞の断片にも出てきていたんです。吉元さんと下河辺さんが裏方として、何とか対立している大田さんと橋本さんの仲を取り持とうとしているという話は、新聞でも出てきています。新聞記者の方々が追跡して、どこでどういうふうに会ったとか、どういう話をしたんじゃなかろうかという憶測記事は出ていたんですけれども、では具体的にどういうことを話し合ったかというのはわからずじまいでした。
 
 この日付表は、日本政府と沖縄県の対立を収拾するために、当時、下河辺さんが、いつ、だれと会ったということをメモしているんですね。「3月4日に官房長官」とあるのは、下河辺さんが梶山官房長官と会っているんです。その次の日に、下河辺さんは大田知事と会っているんですね。「3月7日に総理」とありますのは、下河辺さんが橋本さんと会って沖縄問題を説明したということです。
 
 この当時、下河辺さんは阪神淡路大震災復興委員長もやっていたんですね。だから彼はとても忙しかった。それに輪をかけてこの沖縄問題も困難な作業であるので、後で言いますけれども、「最初はやる気はなかった」と彼は言っていました。
 
 そういうことで、この二つの資料が一体であるということがわかって、それで私はぜひ、このメモ資料に基づいて下河辺さんに直接、インタビューしたいと思いました。
 
 下河辺さんを紹介してくれた元NIRAの秘書だったら彼女が言うには、「インタビューするんだったら、先生、急いだほうがいいよ」。なるほど下河辺さんは現在、80歳でお元気だけど、人の命というのはわからないし、こっちのほうがぽっくり逝くということもありますしね。
 
 それで本当は、文部科学省の科学研究費を申請して、それで来年か再来年あたりやろうと思っていたんですけれども、彼女からそう言われて、それであわてて仲地先生と島袋純さんに頼み込み、沖縄自治研究会の科研の一部に組み込んでもらって、下河辺さんのインタビューが実現できたんです。謝礼なんかいいと下河辺さんは言ってくれましたが、基本的には本人を拘束しますし、テープ起しとかにも何かと費用がかかりますから、それで科研の費用で実現したんです。本当にこれは実現させてもらってよかったと思います。科研に組み入れることを快く了承していただいた皆さんに心より感謝いたします。
 
 そういうことで、急いでスケジュールを組んで、それで下河辺事務所に出向くからインタビューをさせてほしい、できたら5回ぐらいインタビューさせてほしいと、昨年の10月にお願いに行きました。そのときに、このメモについて下河辺さんに聞きました。「これは代理署名裁判問題で大騒ぎになっていた頃のメモでしょう」と私が言ったら、「ああ、そうだよ」と言われました。それで「このメモの内容はこれまで公表されてないんじゃないですか」と言ったら、「公表されてない」と。さらに「公表していいんですか」と言ったら、「いい」という返事でした。 
 
 ということで、下河辺さんが私に沖縄関係の資料を預けたということは、いずれこれらのメモを公表することを含めて、下河辺さんは私に預けたんだなと私は理解しました。ほかに海上ヘリポート関係の資料などもあります。それで、橋本首相が最初に提示した海上ヘリポート案にも下河辺さんが密接に関わっていたのだなと、だいたい検討がつきました。
 
 この日付表の最後に、「10月3日、総理、官房長官、古川副長官、知事、副知事、下河辺(会食)」とありますが、もちろん知事は大田知事、副知事は吉元副知事です。これは、拒否し続けて政府と対立してきた大田知事が代理署名を応諾して、「50億円の調整費と政策協議会の設置」などの条件で、橋本総理と和解しましたが、その手打ち式を主要メンバーで昼食をともにしながらやったんだと、下河辺さんは語りました。昼食の場所は、官邸内だったかどうか、よく憶えていないということでした。
 
 この直後の10月16日に、これも公表されていませんが、東京海上の研究所の会議室で、御厨貴という当時は東京都立大学教授が沖縄返還問題の著書のある法政大学の河野康子さんたちと共に、実は下河辺さんのオーラルをとっているんです。私の手許にその報告書があります。これは和解したした直後のオーラルですから、非常に生々しいです。記憶も鮮明ですしね。1996年10月16日に第1回と、11月12日に第2回、1997年1月に第3回、1997年4月に第4回、1998年に第5回ということで計5回のインタビュー内容が収録されています。このタイトルは「沖縄問題同時検証プロジェクト」です。
 
 これも実は下河辺さんの段ボール箱に入っていたんです。先の日付表は、このオーラルのために下河辺さんが整理して御厨さんたちに渡したんでしょう。歴史的な和解の直後に下河辺さんのインタビューが収録されていた事実にも私は驚きました。
 
 沖縄問題同時検証プロジェクト第1回の冒頭で、このインタビューの内容については、しばらくタイムカプセルに入れて公表しないということが述べられていましたので、これについても私は下河辺さんに尋ねたんです。「これは公表していいんですか」と。すると「もう公表していいよ」という返事でした。
 
 それで、それである人に相談したら、これは下河辺さんの一存だけでは公表できないのではないかといわれました。下河辺さんからオーラルをとった研究者たちの側の了解も必要だというのです。
 
 そういうことで私は御厨さんについ1カ月前にこの件で手紙を書いたんですよ。すると、「すみません、駄目です」って。「未整理の段階だから、まだその内容には触れないでほしい」ということでした。私は、この御厨さんたちのオーラルに目を通しましたので、当時の状況が非常によくわかりました。私がやったオーラルにも役に立ちました。そういういろいろないきさつがありまして、それで私が琉大にいたときに大学院で西銘順治研究を修士論文にまとめた眞板さんが東京に戻っていまして、彼が沖縄関係に詳しいので、彼にテープ起しとか質問の整理とかを頼んで、一緒に下河辺さんにインタビューもしました。
 
 このオーラルは、実は最初のうちは沖縄振興開発問題が中心でしたから、沖縄開発庁の経緯とかについて尋ねるつもりだったんですが、それ以外の事柄についてもいろいろと聞いています。
 
 読まれたらわかると思うんですけれども、復帰前から沖縄にかかわっていた下河辺さんが沖縄の振興開発計画にどういうスタンスを持っていたのか、私はよくわかっていなかったんですね。それが、このインタビューを通して、実は下河辺さんは沖縄開発庁の設立に反対だったということがわかりました。ただ、反対だったといっても彼も官僚ですから、できてしまった沖縄開発庁に対して真っ向から反対するのではなくて、沖縄開発庁は次善の策だったというような言い方をしています。
 
 1970年に山中さんから、「屋良主席に会ってこい」と言われ、下河辺さんは沖縄に初めて出かけて屋良さんと会いました。「山中さんとはどういうつき合いだったんですか」と言うと、「日本政府の離島振興関係の協議会で山中さんがそこの会長か何かやったときに、自分が事務局にいて、そのときに知り合い、おそらく山中さんがおもしろい男がいるというようなことで、沖縄も離島だし、そういう沖縄関係で下河辺を使おうというふうに山中さんが思われたんじゃなかろうか」という答えでした。とにかく山中さんは70年当時、佐藤内閣の総務長官で沖縄担当でしたから、山中さんの鶴の一声で「行け」と言われたということでした。
 
 そして、沖縄に行って屋良さんに会って、沖縄の復帰の枠組みをつくる。彼はその当時、課長級ぐらいの役人なんですけれども、ほかの役人たちの仕事とは違うんですね。ほかの日本政府の官僚たちも沖縄の復帰を巡っていろいろな準備作業をやっているんですけれども、それらとは違う、復帰の大枠をつくる作業をするために、彼は山中さんから派遣されたんだということです。その枠組みづくりで、彼は「沖縄道」などを提案したそうです。
 
 彼の考え方の根底には、北海道と沖縄はもっと自治権と持たせて自由にさせたほうがいいというのがあったようです。半分、独立したような状態にしたほうがいいという考え方が当時の下河辺さんにはあったみたいですね。だが沖縄道的な構想は実現せず、むしろ下河辺さんが予感した悪い方になっていってしまったような気がするんですけれども。
 
 沖縄開発庁が持っていた権限は全部、沖縄の知事に与えて、それで沖縄の人々が自分たちの将来構想をつくって実行するというような体制のほうが望ましいと思っていたと彼は述べています。でも彼の意見は少数意見にとどまり、沖縄開発庁設置の圧倒的な勢いには抗することができなかったということです。 最終的には屋良主席自身も沖縄開発庁の設置を要望する形になりましたし。
 
 それで、この頃のインタビューで一番、印象的だったのは、1970年に最初に屋良さんに会いに行ったときに、ホテルに帰ったら沖縄の若い人たちが十数人押し寄せてきたそうです。下河辺さんが来たということは、日本政府の手先が来たということで。それで彼らが下河辺さんにちょっと話を聞いてくれと言うので話を聞いたら、「沖縄は復帰するんじゃなくて独立したいんだ」というわけです。「自分たちは独立したい」と、独立派の若い人たちがかなり緊張した面持ちで押し寄せてきて、そういったそうです。
 
 「下河辺さんは何と答えたんですか」と私が聞いたら、彼は、「独立したほうがいいんじゃないか、私もそう思う」と答えたそうです。そうしたら、若い人たちが拍子抜けして、日本政府の手先できっと沖縄を組み敷こうと思って来たに違いない人間が、「独立したら」と答えたというので拍子抜けしてしまって、それで結局、桜坂に飲みに行って仲良くなっちゃった、何時にホテルに帰ったかわからないという顛末だったそうです。(笑)「それで彼らの独立論はどうなったんですか」と聞くと、「結局、それからたいしたことなかったね」「性根が入ってなかったんじゃないかな。私は独立していいんじゃないか、独立やれやれとけしかけたんだよ」と下河辺さんは答えました。冗談半分のような受け答えですけれども、やはり沖縄はもっと主体性を持ってやったほうがいいというような彼の考え方につながるものがあって、本気で沖縄が独立する気があったら独立させてもいいんじゃないかというぐらいのことは、その当時の下河辺さんは考えたんじゃないかなと思うんですね。
 
 彼は、普通の官僚とは違った非常にフリーランス・スタイルの官僚だった、しかし中央政府の官僚機構全体からすると、やっぱり異端児ではあったんだろうと思います。したがって、沖縄開発庁をつくることに対しても反対だった、沖縄開発庁をつくれば、これは結局、中央集権体制の中に組み込まれ、沖縄はものを言えなくなると彼は考えていたのでしょう。
 
 沖縄は復帰したときに、日本の全国総合開発計画、いわゆる新全総の中にその一部として組み込まれるんですね。『21世紀の人と国土』という、新しい時代を迎える国土計画に関する報告書がありますが、下河辺さんは、「これは自分の国土政策の卒業論文だ」と言っていました。この冊子の中に沖縄の振興開発計画も取り上げられています。「新全総、沖縄追加」(昭和47年10月13日)とありますね。新全総は沖縄が復帰する前にスタートしていましたので、沖縄が復帰したから、新全総という名称の全国総合開発計画に沖縄をつけ加えるわけですね。
 
 この「第4部、沖縄開発の基本構想」は、復帰にあたって沖縄をどうするのか、出発点の考え方であるわけです。新全総は改訂版がその後に出て、その改訂版の中にこの部分がつけ加えられるんですけれども、この部分には沖縄の歴史とか、それから沖縄の国際性とか、それからやはり沖縄は国際交流の拠点であるべきであるというようなことが既にここに書かれています。
 
 この「沖縄開発の基本構想」は、下河辺さん自身が書いたんじゃないかなと私は思っていたので、彼に聞きました。「これは下河辺さんが書いたんでしょう」と言ったら、「はい」と言いました。だから沖縄に対する下河辺さんの当時の考え方が反映されている。
 
 沖縄の利点をもっと自由闊達に利用して、今後、振興策を進めるべきであるというような考え方に基づいていて、これはどちらかといえば楽観的といえば楽観的といえますけれども、非常に明るくて前向きな発想が随所にみられます。だが沖縄の現実はこの方向にはなっていかないんですね。
 
 そういうことで第1次沖縄振興開発計画(第1次振計)ができます。これを誰が(どこが)中心となってつくったのかというのに私は関心があったんですが、これについては、下河辺さんは「全部、当時の琉球政府がつくった」と言いました。そんなことはない、お金は日本政府が出すから、やはり沖縄開発庁が中心となってつくったのではないか、という意見もありますが、と口をはさんだのですが、彼は「琉球政府がつくった」と繰り返し、言っていました。琉球政府が初めて自分たちでつくったものを、日本政府はそのまま受け入れるように助言したそうです。沖縄の人たちが考えてやろうとすることを、そのまま日本政府はやりなさいと、日本政府の要人たちに要望したとも彼は言っていました。それくらい沖縄はそれまで自分の意思で考え、行動することができなかったからと。これは言ってみれば沖縄の悲劇である、アメリカ統治下でも戦前の日本の下でも、結局、ああせえ、こうせえと言われるばかりで沖縄が自主的に、主体的にものを考え行動することができなかったと。
 
 だからこそ、いま沖縄が日本に復帰するにあたって、沖縄自身が考えて、沖縄自身が行動するというような形にしたかったとまでは明言はしなかったんですが、そういう考え方が下河辺さんの言葉の端々からにじみ出ていました。彼はそう言ったけれども、それが真実だったかどうかはわかりません。本当に琉球政府がつくった振興計画をそのまま第1次振計に組み入れたかどうかはわかりません。でも、下河辺さんは少なくとも私にはそのように語りました。
 
 そういうことを踏まえて、沖縄の振興開発計画についても、下河辺さんは一般の政府見解とは少し異なった見方を持っているということはわかりました。それでも復帰後、彼は沖縄にしばしばやって来て、沖縄の振興開発計画についてもいろいろ講演会とかでしゃべっているんですね。そのことを私は知っていましたから、それで2次振計、3次振計についても聞いたんですけれども、彼は沖縄開発庁ができた時点で、沖縄の振興開発計画にあまり期待を持てないということがわかったから、関心も失せたと言っていました。だから、自分は大きなことは言えない、沖縄開発庁ができた段階で、沖縄振興開発計画が自分の気の進まない形になったから、あまり関与しなかったと言っていました。その割には、随分、沖縄にやって来て発言してきたような印象が私には強いのですけれど。ともかく本人はそのように言っていました。
 
 1970年頃に、下河辺さんはのちに大田県政の副知事を勤めた吉元さんともすでに知り合っていたということです。
 
 吉元さんは「独立したい」と言った若い連中の中に入っていたんですかと言ったら、「その中には吉元は入っていなかった」と答えました。仲吉良新さんはそのなかに入っていたといいました。労働組合か自治労の関係で下河辺さんが沖縄に呼ばれて、それで吉元さんと知り合ったそうです。それ以来、吉元さんとも下河辺さんは30年以上にわたってつき合いがあるとのことでした。
 
 それで彼は沖縄の保守と革新の両方にパイプを持ち続けてきた。私がインタビューしていた間でも、「あさって吉元さんがここに来るんだよ」、「宜野湾市長を連れてくるんだって。何をたくらんでいるのかね」と、そんな話をしていました。そういう口ぶりから、吉元さんと下河辺さんの信頼関係は非常に深いんだなということがわかりました。30年間にわたって政府側の人間として保守と革新両方に人脈をもっている要人というのは、非常に少なかったでしょうね。
 
 本人もそう言っていました。自分みたいに保守も革新も仲良くする人間はあまりいないだろうね、だから適当にあちこちから利用されるんだよというふうなことも言っていました。これもまた、おもしろい発言です。
 
 どちらかといえばやわらかいと言いますか、受け答えするときも単純ではないですね。元秘書だった彼女に、「下河辺先生は一見、柔和ですけれども、難しいですから気をつけてください」と前もっていわれました。「どうして?」と聞くと、「とにかく一筋縄でいかない」と。彼女は秘書をやっていたからわかるんでしょうね。インタビューの中で「やはり沖縄はこれからもっと覇気を持って将来構想を考えるべきなのでしょうか」ということを私がちらっと言ったら、「でもね、本土の人間が沖縄に覇気を求めるなんてそんなことはおこがましいよ」と、たしなめられてしまいました。沖縄にいろいろなものを背負わせておいて、それで自立心や覇気を持て、だなんて、そんなことをヤマトンチュが言っちゃいかんのだというふうなことを言われて、ウチアタイしました。(笑) 独特の話術や思考のスタイルをお持ちで、スリリングで楽しいインタビューでした。
 
 時間の制約がありますので、これからの話は代理署名問題の頃に絞ります。さきほど話しましたように、代理署名問題が決着して橋本総理と大田知事が和解し、沖縄問題が一段落した直後に、下河辺さんが御厨さんたちにそのオーラルをとらせたのはなぜなのだろうと疑問に思っていたんですが、つい最近、琉球新報の前泊氏から、「その頃に下河辺さんは大病をしたはずだ」と聞きました。それで恐らく遺言になるかもしれないと思って、御厨さんたちに阪神・神戸大震災と沖縄問題のオーラルを託した可能性があると言っていました。
 
 自己顕示欲の希薄そうな下河辺さんが、オーラル・ヒストリーを急いで残すというのには私自身、違和感を感じていたのですが、大病が心境の変化を生じたというのであれば、理解できるような気がします。もっともこれは、前泊氏から聞いた話ですから、確認する必要があります。
 
 結局、この御厨さんのオーラルは1998年まであります。いったん代理署名に応諾して、大田さんと橋本さんが仲良くなった、だがその後、今度は争点が移設先の名護に移って、結局、名護の住民投票を受けて大田さんが「ノー」と言って、それでついに、橋本さんと大田さんの関係はまた壊れるんですね。そこまでのオーラルが実はこの5回にわたるオーラル報告書に含まれています。でも、やっぱり一番迫力があるのは、彼が実質的に深くかかわった局面、すなわち対立していた橋本さんと大田さんを仲直りさせて代理署名に応諾させた経緯が、彼の聞き語りでは最も迫力があります。淡々とした語り口ながら、下河辺さんが相当一生懸命、動いたということがわかります。
 
 日付表で最初に登場する梶山官房長官とは水戸高校の先輩後輩の関係とかで古くからの知り合いだったそうです。梶山さんは下河辺さんをいろいろなところで重用していたみたいで、県知事選挙に出ないかとかそういうことを随分言われたと言っていました。でも、自分は政治家になるのは嫌だということで断ったそうです。それで「3月4日 官房長官」というのは、官房長官から突然呼び出されて、1996年3月4日に出向いたら、「沖縄が大変なことになっているから何とか協力してくれないか」と言われたそうです。
沖縄問題が大変なことになっているというのは、もちろん米軍用地の代理署名を大田さんが拒否して、国と沖縄が決定的な対決をしているということなんですけれども、3月4日といえば、代理署名訴訟の高裁判決のころなんですね。高裁での代理署名裁判で、大田知事の沖縄県が敗訴するといいうことは大体わかっていた。政府もそれはわかっていた。もちろん最高裁でも負ける。それが高等裁判所で負けて、それから最高裁判所で負けて、大田さんがそのまま腹をくくって辞任すれば、もう取り返しのつかない国と沖縄との対立になる、事態によっては、大田さんが沖縄県民の殉教者になる、そういう事態になったときに、日本政府としてはどうにもこうにもならなくなる、だからそうなる前に、何とかこの危機的局面を打開して大田さんと橋本さんを仲直りさせたいというわけです。そのための仲介をしてくれないかというようなことを下河辺さんは言われたのです。
 
 さきほども言いましたように、下河辺さんは阪神・神戸大震災復興のほうもやっていますから、そっちも大変なんですね、とてもそんな余力はないと断ったそうです。まして沖縄問題は難しいと断ったそうですけれども、梶山さんは「そう言わずに」とあきらめませんでした。「それでは承知したんですか」と私が聞いたら、「いや、断った」と下河辺さんは言いました。断ったけれども、次の日、大田知事とは会ったと彼はいいました。これは、その日に講演会が沖縄であって、そのゲストスピーカーで下河辺さんが呼ばれていて、それを梶山さんが知っていたかどうかわかりませんけれども、それで沖縄に行くんだったら、ちょっと大田さんに会ってくれないかなとでも言ったのでしょうか。下河辺さんは大田さんとも琉大教授時代から旧知の間柄だったそうです。だから、吉元さんほど長いつきあいではないにしても、大田さんとも旧い友達だったということで、知事になった大田さんと下河辺さんが会うというのは、そんな難しくはなかったわけですね。梶山さんからそう言われたこともあって、大田さんと会っているんですね。
 
 そうこうしているうちに、しだいに下河辺さんは沖縄問題の仲介役をやるはめになっていったそうです。私の下河辺オーラル・ヒストリーの中に書いてありますけれども、このとき沖縄でずいぶん長い間、話し合ったそうです。3月4日、官房長官から言われたときは沖縄問題をやる気はなかったんですけれども、次の日、沖縄に行って大田知事と会ったら大田さんとずいぶん長い間、話し合って意見交換したということで、それで3月7日に大田さんと話した内容を橋本さんに会って伝えた、大田さんはこういうふうに語ったということを橋本さんに話したそうです。
 
 そのときに、ただ大田さんが言ったことをそのまま話すのではなくて、彼は1970年から沖縄にかかわっていますから、沖縄の歴史的な背景もよく知っているわけです。そういった歴史的な背景から、それこそ沖縄の差別の構造とかも全部、話したと言っていました。そのように橋本さんに話したら、「沖縄をそういうふうに全体的に話してくれたのはあなたが初めてだ」と橋本さんから言われたそうです。今まで個別の問題について、基地の問題とか経済振興の問題などについて、それぞれのテーマでいろいろな官僚たちの話を聞いたけれども、沖縄問題を文化や歴史を含めて全体的に話してくれたのはあなたが初めてだということで、そんなに沖縄に詳しいんだったら、下河辺さん、あなたにやってもらえないかなというような、そういうような感じになってきた。でもそのときも「イエス」とは明確に言わなかった、まだ自分には荷が重いというようなことを言ったということです。
 
 このとき橋本さんは大田さんに対してものすごく不信感があります。あれは共産主義の学者だろうと。大田さんのほうも橋本さんに対して、あれはタカ派の政権だという不信感がある。両者を隔てた不信感の溝はものすごく大きかったのです。ただ、下河辺さんが初めて大田さんの話を橋本さんにしたこのときに、「いがみ合ってばかりいたら、取りつく島がない、そういった不信感を一度、捨ててお互いに話し合ったらどうか、話し合えば、きっと何か接点が見つかりますよ」と橋本さんに助言しました。「憎しみ合わないで、お互いに相手の言っていることを聞いてみたらどうですか」ということを下河辺さんは橋本さんに言ったそうです。
 
 そうしたら、そのときに、「そうか、それでは大田さんの話を聞いてみようかな」と橋本さんは答えたそうです。この後で橋本さんは『高等弁務官』という大田さんの本も読むんですね。あの本も下河辺さんが勧めたんじゃないでしょうか。
 
 だから、下河辺さんが3月5日に知事と会って、引き続き、3月7日に総理と会って沖縄問題を説明したときに、橋本さんは初めて大田さんの言葉に耳を傾けてみようかなという気になったわけです。おそらくその話は大田さんのほうにも伝わって、橋本さんが大田さんの話を聞こうかなと思っているということが多分、大田さんや吉元さんの耳にも入ったんだろうと思います。
 
 それからしばらくたって、7月23日にまた下河辺さんは首相と会います。このときは、阪神・淡路大震災復興の問題と、保険の問題と、沖縄の問題。このとき下河辺さんは東京海上研究所理事長ですが、この三つの問題で話し合っていて、どちらかといえば沖縄の問題はあまりそれほど大きな話題にならずに、阪神・淡路大震災のとくに被災地・神戸の問題が大きかったそうですが、それでも最後のほうで、橋本首相がこういった阪神淡路大震災の問題も大きいけど、沖縄の問題も引っかかっているので、沖縄の問題でも相談に乗ってくれないかなというふうなことを下河辺さんに言ったそうです。
 
 そのときには沖縄の問題について十分、話せなかったので、もう1回、沖縄問題だけで私と会ってほしいということを言われて、それで7月29日に、今度は沖縄問題だけに関して橋本さんと下河辺さんが会ったのです。そのときに橋本さんは、「とにかくとりまとめ役をやってもらいたい、できたら、裏のとりまとめ役をやってほしい」、そのときに「首相補佐官とか何でも役職を提供する」ということまで言われたそうですけれども、首相補佐官になってしまうと完全に政府の人間になるから、沖縄の人に対してはそれでは駄目だと首相補佐官の役職を断ったそうです。「沖縄の人は政府の手先の人間の言うことは聞かない」と。本当に裏のまとめ役をやるんだったら、自分は官職に就かないで自由に動いたほうがいいと河辺さんは判断したわけです。でも、このときもはっきりとそのまとめ役を引き受けたわけではなかったそうです。
 
 そうこうしているうちに、再び、8月6日に大田知事と会って、さらに9日に吉元副知事と話し、「橋本さんからはとりまとめ役をやってくれ」と言われていると伝えたわけです。すると今度は沖縄側の大田さんや吉元さんのほうから、「下河辺さんにとりまとめ役をやってほしい」と言われたそうです。結局、両方からとりまとめ役を頼まれたれたわけです。両方から頼まれたときに初めて、やはり自分がとりまとめ役をしなければならないのかなという気になったと下河辺さんは言いました。
 
 政府側から一方的に言われただけで、沖縄側からのそういったアクションがなければ、下河辺さんは受けなかった可能性もあるんですね。そういう意味で、下河辺さんとは大田さんも吉元さんも古い間柄ですから、そういう関係で下河辺さんが間に入ってくれたら沖縄と日本政府の関係も何とかなるかもしれないというふうに二人も考えて、下河辺さんに託したわけでしょうね。
 
 だから、そういう意味では、ここで下河辺さんがパイプ役を引き受けるにあたって、長い人間関係というか信頼関係というものが大きな影響力を及ぼしたということです。このあたりから下河辺さんは本気になって、8月9日に梶山官房長官に会うんですね。この日は梶山官房長官がわざわざ東京海上研究所の下河辺さんを訪ねてきて話をしている。おそらくこのときに、「大田さんと橋本さんが下河辺さんにあいだにはいってまとめ役になってほしいと言っている」ということを梶山さんは述べたんでしょうね。見方を変えれば、もう双方の合意ができていて、下河辺さん自身がつなぎ役をやるという体制が整ったわけですね。
 
 そこで腹を決めた下河辺さんは、橋本さんと大田さんの手を結ばせるためにはたたき台をつくらなければと考えました。何もなくてただ漠然とではまとめようがないので何かたたき台をつくる必要があると考えたわけです。下河辺さんは復帰以前から沖縄問題にかかわってきたので沖縄の歴史や文化や心情にも通じているし、沖縄振興開発計画にも最初からかかわっている、それらを全部、踏まえた上で、さらに沖縄がいま、何を要望しているかということは多分、吉元さんあたりから聞いた。政府の振興策で何をやってほしいのか、とくに大田県政が提唱した国際都市形成構想を具体化するにあたって、はっきり言えば代理署名応諾への御礼として、どのような国の振興策、支援事業を沖縄県は望んでいるのか、確かめた。国際都市形成構想は県独自の構想ですから、実質的な財源の裏づけはないですね。だから政府がこの構想に合致するように振興策を実施してくれれば、沖縄県にとって非常に大きなはずみになるわけで、そのあたりについておそらく吉元サイドと連絡を取り合ったでしょうね。というのは、このあたりを沖縄県と下河辺さんとの間でやりとりしたファクスも下河辺さんからのダンボール箱にあったからです。消えかかった箇所がありましたので、コピーをとりました。
 
 このように沖縄県側に打診を重ねた上で、8月12日にそのたたき台として、下河辺さんが「下河辺メモ」を作成するわけです。それが皆さん方にお配りした「沖縄問題を解決するために」というメモです。これが橋本総理と大田知事を結びつけるたたき台として、下河辺さんが心を砕いて書いた内容です。
 
 このメモの冒頭は「沖縄県民の歴史的な悲劇による痛みと歪み」から始まっています。薩摩支配や明治琉球処分や沖縄戦、そして27年間におよぶ米軍支配など、沖縄の人々は多大な苦難を耐えて生きてきた。こういった沖縄の史実や現実を本土の政府や人間は理解し直視すべきであるという、戒めを込めた文章から始まっています。その後、日米地位協定や日米安全保障体制についても述べられています。
 
 そして6番目に、政府が国際都市沖縄の構想に基づいてどういう国家プロジェクトをやるかということをABC順にJまで10項目、盛りだくさんに列記されています。これは下河辺さん自身の考え方に加えて、恐らく吉元さんあたりに相談して、沖縄が実際どういうのを望んでいるかということを確かめた結果、こういう項目順にまとめたものです。この項目をいま、ながめると、現時点で実現したもの、実現にむかっているものと、そうでないものがあります。
 
 ともかく、これらをまとめ上げて3枚つづりのメモにして、それで橋本総理と大田知事の両者に示したそうです。下河辺さんの心づもりとしては、このメモはあくまでたたき台であって、これからいろいろな訂正が必要になるだろうと考えていました。だから、日本政府側はここを訂正してくれと言ってくるだろうし、それから沖縄県側もここはこうしてほしいと注文をつけてくるだろうと思っていたのですが、これを両者に見せたら、何と両者ともこれでオーケーということになったんです。沖縄側は「これだけ政府がやってくれるんだったらありがたい」、橋本さんも「これ、全部やるよ」と言った。たたき台としてこれからいろいろ修正するつもりだった下河辺メモはそのまま無修正のままで、つまり、これに基づいて大田さんと橋本さんは手を打ったわけです。8月12日のこの段階で、実質的に両者の合意はできていたということですね。
 
 そういう意味では、皆さん方もあの当時の記憶はまだ新しいと思いますけど、その後、最高裁判決や県民投票があって、沖縄県内で知事は代理署名を応諾すべきだ、すべきでない、と論議が高まっていった一方で、そういった振興策のいろいろな話が吉元さんと下河辺さんとの間で進んでいるという情報が伝えられていました。そして、県民投票の結果を受けて代理署名を応諾すべきではないという支持母体の主張に対して、大田知事がいろいろ説得にまわったり、大田知事の決断やいかに、などと騒がれた。そして結局、大田知事は応諾するんですね。しかし、橋本政権と大田県政の合意・協調の原点は、下河辺さんの話によると、完全なものではないにしても、8月12日のこのメモにあったということになります。ただ、下河辺さんの話だけでなく、下河辺さんに対応した沖縄側の相方である吉元さんの話も聞くべきだと思いますが、少なくとも下河辺さんの話を聞く限りにおいては、この8月12日の時点で両者は手を握ったということです。
 
 そうすると大田県政としては、その後に最高裁の判決があって、県民投票があった。最高裁の判決で沖縄県側が負けることはわかっている。ただ県民投票が問題となる。わが国で最初に実施されたこの県民投票は、大田さんが代理署名拒否で国と対決することを決意したときに、「これから国を相手に大変な状況になるので、なんとか自分を支援してほしい」と連合沖縄会長の渡口さんに頼んだんです。連合沖縄がそのために県民投票で支援するというような状況になっていたんですね。ところが、そういう政府との合意ができた後には、逆にこの県民投票で予想された「基地反対」の結果が障害になる状況に変わったわけです。これをどういうふうにクリアするかということが大きな問題になった。日本政府にとっても県民投票というのは大きな障害物だったということはいうまでもありません。
 
 しかし、下河辺さんに言わせると、当時の大田さんはもう腹を決めていて、沖縄の支持者の人たちに非常に精力的に説得にまわったといいます。そのときの大田さんの表情は自信に満ちていたというような言い方をしています。はっきり言えば、下河辺さんをはじめ政府側にとっては非常に頼もしかったということです。そうやって大田知事は、県民投票の結果いかんにかかわらず、代理署名応諾のための布石を打っていったということですね。自信に満ちていたということは、やっぱり8月12日の合意が効いていた。大田さんと吉元さんはこの合意で腹を決めたということなんですね。そのように解釈できると思われます。
 
 結局、大田さんが代理署名を応諾したのは9月13日ですね。その前に、9月8日に県民投票がありまして、9月10日に橋本総理が閣議決定、これは大田知事が代理署名を応諾するための最後のだめ押しになるわけですけれども、「私は過ぐる大戦において沖縄県民が受けられた大きな犠牲と、…」で始まる首相談話を公表します。この首相談話の内容は、下河辺さんに言わせると、下河辺さんの「沖縄問題を解決するために(メモ)」がメモ書きになっているから、これを古川官房副長官が政府声明にふさわしいようにつくり変えた、そういう文書だと言っていました。だから、この内閣総理大臣談話の原形は、自分の下河辺メモだということを言っていました。そして、さらに「50億円の調整費と政策協議会の設置」という目玉が付け加えられて、両者が手打ちをする形になっていくわけです。
 
 この局面で橋本さんと大田さんが手打ちをし、沖縄問題が一段落させるために、下河辺さんの尽力は大きかったと思います。下河辺さん自身にそうした達成感もあって、病気のせいもあったかもしれないが、直後にこの件での御厨さんたちのオーラルも実現したんだと思います。しかし彼は、「決着させたことが本当に沖縄にとってよかったのかどうかわからない」と、昨年の私自身のオーラルの中で語っています。「徹底してやり合って沖縄は独立するというところまでいったほうが、むしろ沖縄にとってよかったのかもしれないね」と、笑いながら語っていたのがとても印象的でした。
 
 皆さんもよくご存知のように、決着したかにみえた沖縄問題はその後、一転、二転、三転して今日にいたっています。とどのつまり沖縄問題の解決は非常に難しいというのが、5回にわたる下河辺オーラルからの私の感想です。



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